【『帝国の慰安婦』事態】問われているのは日本社会だ〜『帝国の慰安婦』をめぐる議論(3.28研究集会)から

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約五時間半の研究集会

3月28日、「『慰安婦』問題にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」と題した究集会が東京大学駒場キャンパスで開かれた。「朴裕河氏の論著について異なる見解を持つ論者たちが、意見を表明した上で対話する」ことを目的に呼びかけられた研究者や市民活動家、ジャーナリストら約150名が約5時間半にわたって意見交換した。
『帝国の慰安婦――植民地支配と記憶の闘い』(朝日新聞出版)は日本近代文学専攻の世宗大学校教授である朴裕河氏が「慰安婦」問題について書いた本である。
私は「慰安婦」問題サイトFightfor Justice運営委員やニコン裁判支援などをとおして「慰安婦」問題に関わっている。この間、日本では同書を裁判報道で知る人が多いと思う。しかし、裁判報道には、原告・「慰安婦」被害者たちがなぜ名誉毀損で告訴するという苦渋の選択をとるにいたったのか、その声に耳を傾け、詳しい事実関係や経緯を検証しようとする姿勢は見られない。それどころか歴史研究者を中心に事実関係の誤りが指摘されている同書への、リベラルと言われる日本の知識人やマスメディアの絶賛の声は鳴り止まない。なぜか。それを解き明かすことは、なぜいまだに当事者が望む解決が実現できないのかを考えることであり、当事者不在の日韓「合意」が強行されようとしている今、重要な課題の一つである。そんな思いで参加した一人として報告する。
まず、同書をめぐる事態について左頁の関連年表を参照しながら簡単に整理しておきたい。

同書は2013年に韓国で刊行された(プリワイパリ社)が、翌14年6月、「ナヌムの家」に暮らす9名の日本軍「慰安婦」被害者が、朝鮮人「慰安婦」を日本軍と「同志」的関係であり戦争の「協力者」などと表現した記述が名誉毀損だとして①出版等禁止と被害者らとの接近禁止の仮処分②名誉毀損による損害賠償(民事)③名誉毀損(刑事)を提訴した。仮処分の審理は3回開かれ、被害者は参席したが、朴氏は一回も参席しなかった。そんな最中、同書日本語版が刊行されたのだ(*1)。日本では同書を「不動の恒星」と絶賛した作家・高橋源一郎氏をはじめリベラルとされる知識人やマスメディアが評価し、第27回アジア・太平洋賞特別賞、第一五回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した。
一方韓国では、2015年2月、34ヵ所(*2)の記述削除の仮処分決定。6月、34カ所を伏せ字にした韓国語版第二版出版。11月、ソウル東部地方検察庁は名誉毀損罪で被告を在宅起訴。日本のマスメディアはこぞって「韓国の言論弾圧」として報道しはじめた。しかし韓国では名誉毀損は刑法で裁かれる。当事者が検察に刑事告訴し、検察が捜査する制度だ(*3)。しかも在宅起訴前に調停の機会があったことを指摘しておく。
日米の学者ら54人は「検察庁という公権力が特定の歴史観をもとに学問や言論の自由を封圧」「この本によって元慰安婦の方々の名誉が傷ついたとは思えず」とする「朴裕河の起訴に対する抗議声明」を発表(以下「54人声明」)。韓国の学者191人も起訴反対声明を出す。これらと異なる見解も出た。韓国内外の研究者・活動家ら380人が「充分な学問的裏付けのない叙述によって被害者たちに苦痛を与える本」であり学問的議論が必要とする「『帝国の慰安婦』事態に対する立場」★リンク貼る(今日入稿したもの)を発表した。2016年1月、ソウル東部地裁は被害者一人あたり一千万ウォン、計九千万ウォン(約八六五万円)の支払いを命じた(被告側は控訴)。現在も裁判係争中。
こうした事態の中で開催されたのが標題の研究集会である。外村大氏(東京大学)の発案で、金富子(キム・プジャ)氏(東京外国語大学)、中野敏男氏(当時・東京外国語大学)、西成彦氏
(立命館大学)、本橋哲也氏(東京経済大学)が実行委員となり呼びかけた。
同書に肯定的な「西・本橋推薦枠」から西氏、岩崎稔氏(東京外国語大学)、浅野豊美氏(早稲田大学)、同書に批判的な「金・中野推薦枠」から鄭栄桓(チョン・ヨンファン)氏(明治学院大学)、梁澄子氏(「慰安婦」問題解決全国運動共同代表)小野沢あかね氏(立教大学)が報告をした。
その後、指定発言者各5名、西・本橋推薦枠=木宮正史氏(東京大学)、太田昌国氏(評論家)、上野千鶴子氏(東京大学)、李順愛(イ・スネ)氏(研究者)、千田有紀氏(武蔵大学)、金・中野推薦枠=吉見義明氏(中央大学)、金昌禄(キム・チャンノク)氏(慶北大学校)、北原みのり氏(作家)金富子氏、中西新太郎氏(元横浜市立大学)が意見を延べ総合討論が行われた。司会は板垣竜太氏(同志社大学)、蘭信三氏(上智大学)。参加者は事前登録制を取った。
結論から言うと、集会の趣旨である同書の内容評価、論点の検証について十分な議論にならず噛み合わないまま終わった。すでにいくつかの報告記事(*4)があり、集会全記録・動画は準備中とのことなので、ここでは同書の主要な論点・具体的記述について言及した論者を中心に整理してみたい。

●新たな認識か誤用・誤読か

まず同書への全体的評価について、西氏と鄭氏の発言をみてみよう。
同書を高く評価する西氏は、「韓国内の『民族主義的な暴言』を抑制するための工夫に満ちた著作」で、「『加害者と被害者』『協力者と抵抗者』といった二項対立に「日本人と韓国・朝鮮人」を対応させてしまうことで、不可視化されてしまう部分を問おうとした」とし、最も重要な箇所として「そのような記憶を無化させ忘却するのは、彼女たちの体験を、民族の裏切り者の意味である「親日」と指さすのと同じくらい、暴力的なことだ。そして、そのような自家撞着的な状態に陥れたのは言うまでもなく〈帝国〉である」を引き「解放後にサバイバーを押し黙らせた『偏見』が彼女らを『民族の裏切り者』とみなし、『記憶を無化させ忘却する』方向に働いたかもしれない戦後史全体を批判の対象に据えようとした」と絶賛した。
一方、鄭氏は、「慰安婦」たちを日本軍の協力者であるとみなす主張をする同書に対し、日本の言論界での評価が異様に高すぎるとし、同書の論旨への評価が分裂する理由は、矛盾する記述という同書の欠陥に由来すると分析した。具体的には、論証の手続きにおいて、史料・証言の恣意的引用・操作、概念・言葉の解釈修正、史料の誤読などが全編にわたって散見されると例をあげ指摘した。同書が過度に絶賛されるのは、兵士たちの目線、大日本帝国の論理から語られてきた80年代以前の「慰安婦」像を求めている日本社会、言論界の欲望に問題があり、その思想風土全体の自己点検が必要だと述べた。(詳しくは鄭栄桓著『忘却のための「和解」―『帝国の慰安婦』と日本の責任』世織書房刊参照)。

次に、同書の主要な論点に具体的に言及された部分を整理する。
①「同志的関係」「愛国」「自発性」
西氏は、同書で最も問題視される「朝鮮人慰安婦と日本人兵士との関係が構造的には「同じ日本人」としての〈同志的関係〉だったからである」という個所を引き、これは、「被害者」だったはずの「慰安婦」の方々を「協力者」のように見せかけてしまう「構造」を生み出したのが「帝国日本」の暴力性だという論旨であると説明。日本兵と朝鮮人「慰安婦」の〈同志的関係〉という一種の幻想や錯覚に関する箇所では、現場で束の間の「恋」があったかのような事例を、文学作品を含む日韓両側の叙述を用い「再構成」しているというのだ。これを朴氏が強調するのは「日韓・日朝対立のパラダイム」を超え、日本軍の「協力者」と者』といった二項対立に「日本人と韓国・朝鮮人」を対応させてしまうことで、不可視化されてしまう部分を問おうとした」とし、最も重要な箇所として「そのような記憶を無化させ忘却するのは、彼女たちの体験を、民族の裏切り者の意味である「親日」と指さすのと同じくらい、暴力的なことだ。そして、そのような自家撞着的な状態に陥れたのは言うまでもなく〈帝国〉である」を引き「解放後にサバイバーを押し黙らせた『偏見』が彼女らを『民族の裏切り者』とみなし、『記憶を無化させ忘却する』方向に働いたかもしれない戦後史全体を批判の対象に据えようとした」と絶賛した。
一方、鄭氏は、「慰安婦」たちを日本軍の協力者であるとみなす主張をする同書に対し、日本の言論界での評価が異様に高すぎるとし、同書の論旨への評価が分裂する理由は、矛盾する記述という同書の欠陥に由来すると分析した。具体的には、論証の手続きにおいて、史料・証言の恣意的引用・操作、概念・言葉の解釈修正、史料の誤読などが全編にわたって散見されると例をあげ指摘した。同書が過度に絶賛されるのは、しての役割を強いられた男女が「被害者」であったかもしれないという、新しい認識の可能性を視野に入れるためだと解釈した。
これに対して鄭氏は、「愛国」的存在や「同志意識」「同志的関係」を論じる部分について、証言や史料の読解があまりに恣意的だとして、初歩的な読み方の誤りの例をいくつかあげた。たとえば、朴氏が朝鮮人「慰安婦」が「愛国」的存在である根拠にしている千田夏光著『従軍慰安婦』には実際はそうした主張はない。古山高麗雄の小説からも兵士の言葉を女性の側の意識を読み解く言葉として解釈する操作が行われていることを検証。被害者の証言についても同様の操作があると批判した。
小野沢氏は、同書は〈からゆきさん=日本人「慰安婦」=朝鮮人「慰安婦」〉という前提に立ち、森崎和江著『からゆきさん』や朝鮮人「慰安婦」の証言を恣意的に引用し、朝鮮人「慰安婦」にも「愛国」「自発性」「同志的関係」があったと解釈していることを批判した。さらに、それが性奴隷制概念への批判や売春婦差別批判につながっていく点も問題だとした。

② 業者の責任/日本軍・日本政府の法的責任
西氏は、同書は「慰安婦」の動員や移送、搾取、虐待にも関与した「業者」の中に韓国人・朝鮮人がいたことをくり返し強調した。それは、韓国・朝鮮人は「被害者」「抵抗者」のカテゴリーに属さなければならないという考え方を一旦は「宙吊り」にし、そうした二項対立的思考では捕捉できない部分こそ、帝国日本の植民地支配をその内部にまで分け入って究明するために避けて通れない要素だと言うためという。
鄭氏は、同書は業者にのみ責任を指摘し、日本軍については、兵士たちが性的欲望をもつという「需要」を作り出し、制度を「発想」し、業者の犯罪的な人身売買を「黙認」した責任のみで、法的責任は問えないと明確に指摘しており、業者主犯説に立っていると主張した。
この点に関し上野氏は「業者主犯説、軍従犯説という読みはまったく誤読」と述べた。
しかし吉見氏は、同書が業者に法的責任はあるが日本軍・日本政府には法的責任は問えないという朴氏の主張を読むと、朴氏は戦時の構造的性暴力について構造的認識ができていないと批判した。

③植民地支配責任について
上野氏は、同書の「最も評価すべき点は、植民地支配の罪ということを突きつけたところ」だと評価した。
これに対し金富子氏は、同書は、朝鮮人「慰安婦」には未成年が多かったというこれまでの歴史研究を否定し、成人が多かったというまったく別の「慰安婦」像を主張している。日本人の場合と異なり朝鮮で未成年が徴集されたのは、植民地支配と民族差別を土台にした国際法の植民地除外や、性病対策などを理由にした「日本政府・軍の意志」である。つまり、朴氏の主張自体が、「植民地支配の罪」の否定につながっていると反証した。しかも「致命的なのはありもしない証拠をつくりだしていること」で、「学術的な評価の対象に値しない」と指摘した。

④記憶の選別・隠蔽について
岩崎氏は、同書の「植民地支配に抗する主体の記憶の選別やモデル化、範例化が起こっているという批判」は聞くべき指摘だと評価した。
一方、長年被害者支援をしてきた梁氏は、同書には朴氏が聞き取った被害者証言はなく、韓国の挺身隊問題対策協議会(以下、挺対協)が編纂した証言集6冊から、日本人にとって受け入れやすい「楽しかった思い出」や「軍人への憐憫の情」「恋愛感情」などを「取捨選択」していると指摘。同書は、記憶を隠蔽してきたのは挺対協だという論旨を展開しているが、挺対協の編纂した証言
集にありのままに記録されているからこそ引用できたはずと批判した。

⑤被害者の声を聴くとは
小野沢氏は「証言がその元々の文脈から切り離されて引用され利用されている」とし、北原氏は「朴氏の選ぶ言葉からは、人間の痛みというものに対する共感はまったく感じられない」「日本軍と「慰安婦」との関係、日韓の関係、帝国主義とその支配下にあった人々との関係は、痛みの伴う身体ではなくエロス的身体として描かれている点がいちばん気になった」と語った。
浅野氏は討論のとき突然「ハルモニたち(「慰安婦」被害者)に自由に会えるようにしてくださよ!」と会場に向かって叫んだ。被害者の「主体性」を運動が操作していると言いたいのだろう。しかしたとえば約20年前の「慰安婦」被害者たちを記録したドキュメタリー『記憶と生きる』(土井敏邦監督)を観るだけでも、彼女たちに「主体性」がないかのような発言はできないはずだ。
梁氏は、「慰安婦」にされるという体験をした人が抱える闇は、普通の経験しかしたことのない者には到底わかり得ないことであり、それを意識してはじめて被害者たちの経験を謙虚に想像することができる。朴氏の被害者証言解釈に決定的に欠けているのはその謙虚さだと指摘した。

●知識人・メディアの責任は?

以上のような論点について、これ以上議論が深まることはなかった。同書を肯定する論者からは、事実関係の誤りについて具体的な反証はなく、「増補改訂版とか出るときにはできるだけ直してもらえるよう助言をしていきたい」(西)、「実証研究のレベルで多くの問題をはらんでいる」(本橋)、「脇が甘いというか、これでは誤読を招く」(上野)、「史料の扱いが丁寧であるとは思わない」(千田)など、同書に欠陥があることを認めるコメントが続いた。
当日参加していた朝日新聞記者・OBの皆さんはどう思ったのだろうか。歴史研究の蓄積からみても見過ごすことのできない欠陥がある同書を容認したまま高い評価を与え、賞を与え、言論・出版界に流通・普及させてしまったことについて、「知識人の責任」「メディアの責任」はないのか。朝日新聞出版の責任も重い。同社青木康社長は自社サイトで〈「確かな情報に基づいた一冊か」を自らに問いかけ、いい本、いい雑誌をつくろうと努力してまいります〉と述べているが、同書は「確かな情報に基づいた一冊」なのか?
史料や証言の誤用や恣意的引用にもとづいた記述によって「慰安婦」被害者を傷つけ、日本の法的責任は問えないとする同書を〈『日韓(日朝)』といった二項対立の克服〉(西)という新しい問題提起として前向きに議論すべきと言われても、「間違ったテキスト前提に議論を深めることはできない」(北原)のだ。
日韓の政治決着による日韓関係の改善のために有効な本であり、批判する人や運動は「日本だけを悪者にして」(木宮)おり「日韓関係の改善」にとって障害になるという発言まであったのには耳を疑った。

●「レッテル貼り」が分断招く

議論の中で、同書を評価する登壇者から「慰安婦」問題解決運動への根拠を示さない「レッテル貼り」「バッシング」が繰り返されたのはもう一つの驚きだった。「一枚岩」「同じトーン」「感情的」「政治文化の自家中毒」「内輪もめ」「潰し合い」「糾弾していばる」など(岩崎氏、浅野氏、太田氏、上野氏)。
運動批判はあってよい。が、根拠もあげず「上から目線」で運動批判をするとは、「学問の自由」を標榜する知識人がすることだろうか。こうした言動こそ分断を招き、傍観している人々に消費されるだけだ(*5)。一方的な「レッテル貼り」や運動経験のルサンチマンではなく、具体的な論拠をあげ検証した上で批判すべきである。そうすれば梁氏が言ったとおり運動の側は真摯に受け止める。

●訴えた被害女性たちの思い

上野氏は「刑事告訴をしたのは、韓国の司法、検察」と発言し、会場から「違う!」と声があがり騒然とした。『帝国の慰安婦』裁判=「韓国の国家権力による言論弾圧」というイメージはこうして再生産(*6)されている。朴氏を名誉毀損で告訴したのは「慰安婦」被害者たち本人である。上野氏の発言は、結局、性暴力被害当事者の主体性を否定することだ。
上野氏は何度も「刑事告訴はだめ」という合意を求めた。しかし、被害者たちを告訴せざるをえない状況に追い込んだものは何か、それこそが言論の劣化・知識人の責任だ、と鄭氏も北原氏も指摘しているのだ。日本のアカデミズムやジャーナリズムの主流には、刑事告訴に抗議する前にやるべきことがあるだろう。
いま改めて、「学問」の対象とされている日本軍「慰安婦」サバイバーの女性たちのことを考える。朴氏の研究対象とされたハルモニたちが同書の内容に傷ついたと言っているのに「言論には言論で」(「54人声明」)という暴力性(*7)。
「この本によって元慰安婦の方々の名誉が傷ついたとは思えず」という「54人声明」に署名した西氏は、この一文を「あえて主張せざるを得なかったのは、同書が「慰安婦」サバイバーの方々の『名誉を傷つけるものである』という判断を固定化させるようなジャーナリズムや知識人の動きが原告の告訴を後押ししているのではないかという疑いから自由ではなかったから」と説明した。
しかし、現実はむしろ逆だ。日本のマスメディアによるこの裁判報道で原告・被害者の声を取材した記事を私は読んだことがない。一方、被告・朴氏の言葉やインタビューは溢れている。たとえば朝日新聞は起訴以降相当な頻度で被告側の意向を伝える記事を載せ、「54人声明」も電子版に全文掲載した(紙面・電子版あわせて3ヵ月で21回、24,842文字、筆者調べ*8)。北原氏はこの一文について「少なくとも性暴力被害者に向けた言葉としては誤りだったと認めてほしい」と訴えた。「54人声明」に署名した本橋氏は『サバルタンは語ることができるか』(スピヴァク)を引用しつつ、北原氏や梁氏の指摘を受け「この一節がある限りにおいて署名すべきではなかった」と撤回の意思を明らかにする一幕もあった。

議論が噛み合わなかったとはいえ、この日、誤用、恣意的引用、論拠なき記述が具体的に指摘されたのだから、同書に「新しい/重要な問題提起」があると評価する知識人、マスメディアおよび出版社、何より著者はまずは歴史的事実と被害者の証言に謙虚に向き合い、テキストの根本的な検証をすべきである。そこからしか議論を深めることはできない。

岡本有佳(編集者)
登録2016年6月30日

*1 日本語版は大幅な加筆修正が行なわれている。その違いについては、鄭栄桓「戦後日本」肯定の欲望と『帝国の慰安婦』――韓国語版・日本語版の異同から見えてくるもの)」参照。『Q&A‘위안부’문제와 식민지지배책임』(삶창)に収録。日本語は日本軍「慰安婦」問題webサイト制作委員会編、金富子・板垣竜太責任編集『Fight for Justiceブックレット3 Q&A朝鮮人「慰安婦」と植民地支配責任 あなたの疑問に答えます』(御茶ノ水書房)増補版に収録予定。

*2 「『帝国の慰安婦』出版禁止箇所(34ヶ所)と日本語版の表現」鄭栄桓著『忘却のための「和解」:『帝国の慰安婦』と日本の責任』(世織書房)参照。

*3 韓国では名誉毀損は刑法で裁かれる。つまり、当事者が検察に刑事告訴し、検察が捜査する制度になっている。イ・ナヨン氏インタビュー「戦時性暴力システムを問う」『世界』2016年4月号参照。

*4 土田修「朴裕河氏の「帝国の慰安婦」をめぐり擁護と批判で初の討論会」『ハンギョレ新聞』日本語版2016年4月23日、本誌取材班「激論!『帝国の慰安婦』をめぐるシンポジウム」『週刊金曜日』2016年4月22日(1085号) 、竹内絢「『帝国の慰安婦』をめぐり研究集会」『女たちの21世紀』86号(2016年6月)、李杏理「『帝国の慰安婦』をめぐる研究集会・参加報告」『バウラック通信』9号(2016年6月)、能川元一ブログ

* 5 驚くことに、つい最近も朝日新聞のWEBRONZAで中沢けい氏が「被害を訴える社会運動に不利に働くからという理由で朴裕河氏の著作を排除しようとする人々」という根拠を示さないレッテル貼りをしている(2016年4月20日アクセス)。

*6 「原告=挺対協説」という誤報がメディアや識者に広がっていることは筆者の3/28研究集会当日資料で指摘した。BS朝日ニュース番組『いま世界は』(2015年6月14日放映)、第15回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞受賞理由(ホルバート・アンドリュー元日本外国特派員協会会長執筆)に誤報があり、指摘したところ、BS朝日は訂正を放送で流し、早稲田ジャーナリズム賞はサイトからその部分を削除した。

*7  戦後思想・戦後文学の名編集者・松本昌次氏は「54人声明」について、「『学問・言論の自由』を唱えていればコトが済むと思っている方たちよ、まずみずからの『感受性の欠落』を見つめ、『犠牲者への愛』を学問・言論の根底に据えて欲しいと願います」「さらに愕然としたのは、朴氏の起訴に対し、日米の知識人65人が、「学問や言論の自由」を看板に、抗議声明を出したことです。その中にはわたしの存じ上げている方もいて、ユーウツですが、ここに名を連ねた一人である大江健三郎氏はかつて、柳美里氏の『石に泳ぐ魚』の出版禁止事件の折、「発表によって苦痛をこうむる人間の異議申し立てが、あくまで尊重されねばなりません。」と表明したとのことです。今回の抗議声明への加担とは、全く逆ではないでしょうか。」と書いている。そのとおりである。レイバーネット連載「松本昌次のいま、よみつぎたいもの」第7回 2016年4月1日。

*8  2016年4月7日に、韓国ソウルの中央大学で開かれた日韓共同シンポジウム「日本軍「慰安婦」問題・Fight for Justice」で筆者の発表「日韓「合意」後、日本の「慰安婦」言論状況を考える〜「合意」、少女像、『帝国の慰安婦』〜マスメディアから、街頭まで」に収録。

•    本稿は、『放送レポート』(リンク:http://mediasoken.org/broadcast_report/view.php?id=131&title_p=)261号(2016.7・8)(メディア総合研究所編、大月書店)に掲載されたものに若干加筆修正し、紙幅の都合で割愛した注の追加をしたものである(2016年6月30日)。発売中の雑誌にもかかわらず、再録を許諾していただいたことに感謝します。

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