4-2 戦前の朝鮮は日本の一地方に過ぎなかった?

植民地とはもともと、ある国・地域からの移住者によって経済的に新たに開発された土地を指す概念です。つまり開拓地という言葉と通ずる性格をもっていたと言えるでしょう。しかし植民地という言葉は、19世紀以降の帝国主義段階以降の歴史において、もともと持っていた主に軍事力を背景として他民族が居住する地域を政治的、経済的、文化的に支配する側面が強調されるようになり、そうした統治形態を指す概念として使用されています。

 

近代的法制度の観点からは、国の領域の一部であるが、その国の統治の一般原則に対する例外が認められて特殊の法形式による統治が行われる法域、つまり異法域を植民地と規定しています。したがって植民地をもつ近代国家においては、本国統治において行われている法的な原則が一般的には適用されない複数の法域によって、領域、すなわち統治権の及ぶ範囲が形成されることになります。

 

大日本帝国が敗戦によって植民地を放棄するまで、日本には、「外地」と一般的に呼ばれた公式植民地が複数存在しました。領域への編入順に、台湾、関東州、樺太、朝鮮、南洋諸島の5つです。その統治形態は、地域や時期によって、直轄植民地、租借地、保護国、委任統治領とさまざまですが、これら植民地に法制度的に共通してあげられる特徴は、これらの地域に帝国憲法で規定された臣民の権利・義務を定めた法律が当然には施行されなかったという点です。帝国憲法では、帝国議会の協賛を経て天皇が立法権を行使すると規定されていましたから、植民地においては帝国議会の権限が必ずしも及ばない場合があるということになります。

 

Q2_3_浅野豊美

浅野豊美『帝国日本の植民地法制』

ではこれらの地域ではどのような法制度が行われていたのでしょうか。ここでは植民地朝鮮に限定して説明していきます。

 

朝鮮における植民地統治機関である朝鮮総督府の行政長官・朝鮮総督は、天皇が任命する親任職であり、官制上、陸海軍大将しか就くことができませんでした。1919年の三・一独立運動を契機として行われた官制改革により、文官にも任用範囲が拡大されましたが、文官が総督に就任した事例はありません。また総督は、天皇に直隷して、委任の範囲で陸海軍を統率できるとともに、政務に関しては内閣総理大臣を経て上奏して裁可を受けることができるとされ、制度的には天皇以外の監督機関は存在せず、立法権と行政権、司法権、さらには軍隊統率権をも一元的に行使することができる強大な権限をもっていました。つまり植民地朝鮮においては、日本本国で曲がりなりにも行われていた三権分立が制度的に保障されていませんでした。

 

このうち、法制度的に特に問題となるのは立法権の問題です。韓国併合時の日本政府の公式的見解では、大日本帝国憲法が植民地朝鮮に施行されるとされていました。しかしそれは、天皇の統治権(天皇大権)が植民地朝鮮に及ぶという原則を形式的に確認したものにすぎず、憲法が実体化する諸権利等を規定した部分については施行が保留されました。

 

それを端的に示すのが、朝鮮総督に対する立法権の一般的委任です。朝鮮に先行する植民地である台湾でも同様の問題が起こり、台湾総督への立法権委任を定めた法律1896年法律63号にちなんで「六三問題」と呼ばれます。

 

先に述べたように、帝国臣民の権利・義務は帝国憲法の下、法律によって規定されました。しかし植民地朝鮮では、法律で規定されるべき内容は、①天皇の命令である勅令によって朝鮮に適用された法律(著作権法や特許法、治安維持法など)、②朝鮮に施行することを目的として制定された法律(東洋拓殖会社法、朝鮮事業公債特別会計法など)、③制令とよばれる朝鮮総督の命令によって制定されていました。

制令には、植民地支配下において制定されたものだけでなく、韓国併合以前に存在した新聞紙法や保安法などの法令の効力を存続させる形式のものも多く含まれています。本来、法律によって規定されるべき内容であっても、②以外は行政部の独自の権限による命令によって行われていたのです。特に朝鮮総督に、制令という法律に代わる命令を出す権利、つまり立法権の一般的委任を認めるかどうかは、当時の帝国議会および法学界でも広く議論されましたが、結局、日本が朝鮮を統治している期間に、この問題は解消されませんでした。

 

もう一つ、法制度的観点から問題となるのは、日本人と植民地民とに適用される法規が必ずしも一致しなかったという点です。大日本帝国の領域内では、属地法と属人法が併用されており、法域と民族という二重基準からなる法制度が存在していました。

 

たとえば衆議院選挙法は属地主義的に行われ、日本列島内(内地)に住む朝鮮人にも参政権が付与される一方、朝鮮在住の日本人には参政権がありませんでした。これは法域間で法適用が異なる事例です。

 

一方、同じ法域内において、民族間で適用法規が異なる場合も数多く見られました。たとえば徴兵制度の運用でそれを確認してみましょう。大日本帝国憲法下の徴兵制度は、1889(明治22)年の「徴兵令」(なお、最初の「徴兵令」は1873年公布)、および1927年の「兵役法」にもとづいていますが、「戸籍法」の適用を受ける者が徴集されるとの規定から、「戸籍法」ではなく「朝鮮民籍令」(1922年制定。それ以前は併合以前に制定された「民籍法」にもとづいていました)の下で編成されていた朝鮮人は徴兵を受けませんでした(なお、北海道や沖縄など、日本「内地」でも植民地本国への編入の度合いによって施行が遅れた地域もありました)。朝鮮人に徴兵制が敷かれたのは、1937年の日中戦争以後の戦況悪化に伴う兵力不足の下で、1943年の「兵役法」改正で、「戸籍法」および「朝鮮民事令」のうち戸籍に関する規定を受ける者に徴集範囲を拡大したことによります。同じ徴兵であっても、日本人には「戸籍法」を、朝鮮人には「朝鮮民事令」を適用していたわけです。

 

ちなみに当初、制令として制定された「朝鮮民事令」は、植民地朝鮮における民法とも言えます。民法は、契約といった経済生活や、相続・家族制度といった家族生活の法という性格をもっています。朝鮮総督府は韓国併合に際して、日本内地との経済活動の連動性を図るという意図もあり、いわゆる契約法的側面については朝鮮にも施行しましたが、家族法の部分については従来の慣習を残し、日本内地と朝鮮とを切り離しました。具体的には、民法が定める内容については、「朝鮮民事令」等に規定がある場合以外は、「民法」によるという手続きをとっていました。

 

つまり、内容としては日本本国の法律であっても、朝鮮内では制令の形式で規定されていたのであり、これを「法律の依用」と呼びます。これは、民法が定める内容のどの部分を朝鮮に施行するかを決定するのは、朝鮮総督の命令である制令であるということを意味しますから、朝鮮人の義務・権利が文字どおり朝鮮総督の意向に委ねられることとなります。有名な「創氏改名」は、法的には「朝鮮民事令」の改正という手続きを踏んだものであり、これが先述した徴兵制度の施行につながっていったといえます。

 

Q2_2_朝鮮民事令改正の件

「創氏改名」を規定する「朝鮮民事令」上奏案

 

それでは、大日本帝国が諸外国と結んだ条約はどのように植民地に適用されたのでしょうか。その条約と、先述した異法域としての植民地とはどのような関係にあったのでしょうか。

 

国際法が国内裁判で直接適用されるかどうかは一律に決まっているわけではなく、個々の政体によって異なります。現在でも、イギリスやカナダなどのように、個々の条約が個別に国内法に変形されなければ国内的な効力が発生しないとする体制をとっている国もあり、アメリカやフランスなどのように、条約を一般的に国内法体系に受容する憲法体制をとっている国もあります。戦後日本は憲法98条2項により後者の体制をとっていると解されます。戦前の日本では、さまざまに学説は分かれていましたが、条約締結を天皇大権としていたため(明治憲法13条)、条約が直接的に国内法の効果を有するとするのが一般的でした。

 

内地と法域を異にする植民地であっても、国際法上は同一領土と見なされるため、条約を締結するにあたって、その条約の内容を適用しない旨を宣言しない限り(これを留保といいます)、内地と法域を異にする特別統治主義はとりえないと解釈されていました。逆に言えば、留保という法手続によって、条約が規定する内容の一部を制限したり、施行する地域を限定したりすることができたわけです。

 

Q2_1_25年条約日本国政府宣言

植民地への条約適用除外に関する日本政府の宣言

 

たとえば、婦人・児童の売買を禁止する国際条約である「醜業を行わしむる為の婦女売買取締りに関する国際条約」(1910年)や「婦人及児童の売買禁止に関する国際条約」(1921年)には、適用年齢(21歳未満禁止)について留保するとともに、朝鮮半島、台湾、関東租借地の植民地への適用を除外する規定を設けていました(1910年条約は第11条、1921年条約は第14条)。その後、年齢規定に関しては1927年に留保条件が担保されましたが、植民地への適用除外規定についてはそのまま維持されました。

 

参考文献

永野清・田口春二郎『朝鮮行政法要論』巌松堂、1915年
美濃部達吉『憲法撮要』有斐閣、1932年
中村哲『植民地統治法の基本問題』日本評論社、1943年
浅野豊美『帝国日本の植民地法制』名古屋大学出版会、2008年

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