4-1 そもそも韓国併合とは?
日本による韓国併合は合意にもとづいたものだったとか、平和的に行われたという議論がありますが、実態はどうだったのでしょうか。
1910年8月に行われた「韓国併合」とは、「韓国併合ニ関スル条約」を結んで大日本帝国が大韓帝国を廃滅させ、直轄植民地として自らの版図に編入したことをいいます。
「韓国併合ニ関スル条約」では、「韓国皇帝陛下は、韓国全部に関する一切の統治権を完全且永久に日本国皇帝陛下に譲与す」(第1条)と位置づけ、「日本国皇帝陛下は、前条に掲げたる譲与を受諾し、且全然韓国を日本帝国に併合することを承諾す」(第2条)と謳っています。つまり、大韓帝国皇帝が韓国に関するすべての統治権を大日本帝国皇帝、すなわち天皇に譲渡し、天皇がこれを受諾して韓国を日本に編入するという論理構成になっています。韓国併合が合意にもとづいて行われたという主張は、この条約を前提にしているわけです。
しかし、この条約が結ばれた経緯を詳細に調べると、そうした「合意」の形成は危ういことがわかります。同条約は、日本が準備した条約案を韓国に受け入れさせたものだったからです。もちろん、韓国側が受け入れたのだから「合意」が形成されていると強弁することも可能かもしれません。しかし日本政府は、将来の日韓「両国民ノ輯睦ヲ図ル」ために日韓の「合意」の形式を整えることを重視する一方、もし韓国側が抵抗を示した場合には、威圧や一方的宣言によって編入を行うという方策もあわせて検討していました。
では、なぜ韓国側が韓国併合に際して「抵抗」を示さなかったのでしょうか。確かに韓国併合時には大規模な抵抗運動は起きていません。その要因として、日本が韓国併合の断行に向けて軍隊や警察による警備態勢を強化させ、特に6月から警備部隊を順次ソウルに集結させ、首都地域の治安維持態勢を整えていたことをあわせて考える必要があります。韓国併合条約を統監として締結した寺内正毅は、この治安体制の整備について「軍隊、警察の威力と不断の警備は間接に〔併合が平穏に行われたことに〕多大の効果を示したるは亦争うべからざる事実」であると誇っていました(『韓国併合始末関係資料』78頁)。
しかし、日露戦争による日本の韓国侵略以来、韓国併合に至るまでの期間、日本の支配に抵抗して義兵将らを中心に武力闘争が高揚していた歴史的事実を押さえておかねばなりません。日本は、植民地戦争とも呼びうる義兵戦争を鎮圧するために軍隊を増強し、徹底的に弾圧しました。日本の治安機構が編纂した『朝鮮暴徒討伐誌』によれば、1907年から10年末までの3年半で、義兵と日本軍との交戦回数は2,819回、14万人の義兵が参加し、義兵側の死者は17,688人に上りました。戦争の規模を死者数から単純に導くことはできず、あくまでも指標の1つにすぎませんが、この死者数は日清戦争時の日本の戦死者数約13,000人を大きく上回るものでした。さらに、この義兵側の死者数は、日本軍の死者数130名程度と桁違いに多くなっています。そのかけ離れた数字の差は、義兵をはじめとする朝鮮民衆に対する虐殺が日本軍によって行われた可能性を示しています。また1909年末には、最後の大規模掃討戦として「南韓大討伐」が実施されました。日露戦争以来、5年以上に及ぶ日本軍の掃討戦を経て、韓国併合時には朝鮮半島内には武装抵抗勢力がほとんど残っていなかったのです。
もう一つ、「合意の形成」を容易にしうる要因として、日本の段階的な主権侵奪によって、韓国政府の自由意思が制限されていたという問題が挙げられます。
1904年に始まった日露戦争段階から、日本が大韓帝国の主権を順次奪っていきました。日露開戦直後、日本の内政干渉や軍事上必要な地点を収用することなどを定めた「日韓議定書」を韓国政府に強要し、翌年の日露講和条約後、第2次「日韓協約」を結んで韓国の外交権を剥奪して日本の保護国としました。
さらに1907年、韓国皇帝・高宗が第2次「日韓協約」締結の不法性を国際世論に訴えようと、オランダ・ハーグで行われていた国際会議に密使を派遣した、いわゆるハーグ密使事件を契機として、反日的な態度を示していた皇帝・高宗を譲位させ、病弱な純宗を即位させるとともに、第3次「日韓協約」を締結して韓国の内政権を奪い、日本人による統監府を中心とした韓国統治機構の再編を図りました。そうした日本による断続的な主権侵害の下で、はたして韓国政府が十全な自由意思をもちえたか否かを再検討する必要があります。
日韓交渉および日朝交渉において、韓国併合の不法性を指摘する日韓旧条約無効論が議論となりましたが、そのなかで焦点となったのが第2次「日韓協約」の有効性についてです。2000年を前後する時期に、日韓の歴史研究者間で、国際法学者を巻き込みながら第2次「日韓協約」の有効性に関する論争が、特に海野福寿氏と李泰鎮氏との間で行われました。
そこでの論点は大きく分けて、①批准書の存否や主権委譲にかかわる手続きなどの条約の形式をめぐるものと、②条約締結過程で日本が韓国側代表に対して加えた強迫などの行為を条約成立の阻害要件と見なすか否か、の2点でした。
特に②は、ソウル中心部で日本軍が軍事演習を行って威嚇するなか、条約締結をリードした伊藤博文が軍事力の行使をちらつかせながら詐術的言動により条約を締結したもので、条約締結直後からその非を鳴らした義兵や愛国啓蒙運動などによる反日運動が繰り広げられることとなります。それが条約の無効原因となるかどうかはともかく、日韓歴史研究者間の論争でも、条約締結において強迫行為が行われたという歴史的事実の認定自体は一致しています。日本が軍事的示威を行使しながら韓国の主権侵奪を遂行していったことは、第2次「日韓協約」締結過程にもよく表れています。
なお、「韓国併合」という呼称についてですが、日本では日韓併合、日韓合併などと呼ばれることもあります。「併合」という用語は、韓国併合当時、外務省政務局長だった倉知鉄吉によれば、「韓国が全然廃滅に帰して帝国領土の一部となるの意を明らかにすると同時に、その語調の余りに過激ならざる文字を選ばんと欲し、種々苦慮したるも、遂に適当の文字を発見すること能わず。依て当時未だ一般に用いられ居らざる文字を選ぶ方得策と認め」て用いたものとされます(小松緑『朝鮮併合之裏面』)。
実際には、韓国併合以前から「併合」という用語が史料上表れており、倉知の回想は実態に即してはいませんが、それはともかく、「併合」という用語は植民地化の本質を隠そうとする意図によって選択的に用いられたものと言うことができ、歴史学における概念としてきちんと検証する必要があります。なお、韓国では「韓日合併」などが使われることもありますが、先に述べた日韓旧条約無効論の立場から「強制占領」(強占)と呼ばれることが多くなっています。
参考文献
海野福寿『韓国併合』岩波新書、1995年
趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書、2012年
趙景達編『近代日朝関係史』有志舎、2012年