1-3 日韓請求権協定と「慰安婦」問題

 

日韓条約

1965年6月22日に東京の首相官邸で行なわれた、日韓基本条約の調印式の風景

1965年6月22日に、日韓基本条約(正式には「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」)が締結されました。これに付随して同日、日韓請求権協定(正式には「日本国と大韓民国との間の財産および請求権に関する問題の解決ならびに経済協力に関する協定」)が締結されました。

 

同協定第2条1項には、「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む。)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が、1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約第四条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」とあります。

 

請求権で「完全かつ最終的に解決された」のか?

書映 戦後日韓関係

そこで、この「完全かつ最終的に解決された」請求権がどんな内容で、どう処理されたのか確認したいと思います。

 

第一に、韓国側の対日請求権の内容について、日本の外務省は「日本からの韓国の分離独立に伴って処理の必要が生じたいわゆる戦後処理的性格をもつ」ものとして理解していました。つまり、それは、日本が植民地朝鮮を合法支配したという前提とした「戦後処理」ということです。

 

書映 日韓交渉この協定が締結された後に、労働省、大蔵省、厚生省などが消滅させようとした韓国側の個人請求権を見ても、郵便貯金や未払金などの、植民地期の法律関係を前提とするものです。日韓請求権協定で「解決」された請求権は、「慰安婦」問題などの戦争犯罪による被害については想定されていなかったのです。第二に、韓国側の対日請求権の処理方法について、外務省は外交保護権の放棄だけを想定していました。このことについて、外務省の説明に沿って考えてみましょう。

 

その要点は二つです。第一に、外交保護権とは「自国民に対して加えられた侵害を通じて、国自体が権利侵害を蒙ったという形で、国が相手国に対して国際法のレベルにおいて有する請求権」です。第二に、したがって、国は私人の代理人ではありません。「国は自己の裁量により、この種請求を提起するか否かを決定することが出来、また相手国による請求の充足に関してもどのような形、程度で満足されたものとするかそれを被害者にどう分配するか等につき、完全に自由に決定することが出来る」というのです。つまり、外交保護権とは、自国民の権利侵害を国自身がこうむったものと見なし、国の裁量で行使するものというわけです。

 

このような考えに基づいて、日本政府は日韓両国が外交保護権を放棄したことにより、私人の権利が消滅したかどうかを曖昧にしたまま、相手国または相手国民の財産をそれぞれ処分してよいと判断しました。その結果、日本政府は日本の国内法として韓国人個人の請求権を消滅させる措置として、1965年12月17日に「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定第二条の実施に伴う大韓民国等の財産権に対する措置に関する法律」を制定したのです。

 

論議されなかった「慰安婦」被害

なお、日韓請求権協定が締結されるまでの交渉では、「慰安婦」問題はほとんど議論されませんでした。外交文書で一度だけ確認できますが、それは韓国側の代表が「日本あるいはその占領地から引揚げた韓国人の預託金」を議論する文脈で、「慰安婦」の事例を出したに過ぎず、「慰安婦」の被害に関する内容を含まないものでした。

 

日韓請求権協定では、日本の朝鮮植民地支配とアジア侵略戦争によって引き起こされた「慰安婦」の被害に対する歴史的責任の問題が解決されたと言うことはできません。

 

 

<参考文献>

・高崎宗司『検証 日韓会談』岩波書店、1996年

・吉澤文寿「日韓国交正常化」(中野聡ほか編『ベトナム戦争の時代1960-1975(岩波講座

東アジア近現代通史 第8巻)』岩波書店、2011年)

・吉澤文寿『戦後日韓関係—国交正常化交渉をめぐって』クレイン、2005年

・太田修『日韓交渉―請求権問題の研究』クレイン、2003年

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