4-3 日本のおかげで朝鮮が豊かになった?
はじめに
「日本としては朝鮮の鉄道や港を造ったり、農地を造成したりし、大蔵省は、当時、多い年で二〇〇〇万円も持ち出していた」。1953年、第3次日韓会談の際の日本側首席代表久保田貫一郎(外務省参与:当時)の発言です。1951年に日韓国交正常化交渉が開始されて以降、これに代表される“日本の植民地支配は朝鮮(韓国)に経済的な利益をもたらした”式の発言が日本側から相次ぎました。1965年に両国間の国交は正常化しましたが、それ以降も、今日に至るまで、官民を問わず、日本社会のなかでこうした発言をする人々は後を絶ちません。以下では、植民地朝鮮における経済開発の実態を示すことで、上記のような、いわゆる「植民地支配=恩恵」論に対して反論を示してみようと思います。
植民地朝鮮への資金流入
植民地朝鮮の統治機構であった朝鮮総督府の財政に対しては、植民地期を通じて、日本政府の財政から「補充金」という費目の補助金が支出されていました。冒頭の久保田発言にある「二〇〇〇万円も持ち出していた」というのはこれを指していると思われます(水田直昌監修『総督府時代の財政』友邦シリーズ第19号、友邦協会、1974年、160頁)。しかし、その大部分は、朝鮮総督府やその付属機関で働く日本人職員の俸給に対する割増支給と各種手当の財源となっていました。久保田発言は、この「持ち出し」が鉄道などインフラの整備と結びついていたかのような印象を与えており、正確ではありません。
もちろん、この「補充金」以外にも、日本から朝鮮に対する財政資金・民間資金の流入があり、インフラの整備や農業・工業などの産業開発に投資されました。その年ごとの流入額は、産業開発が本格化する1920年代以降に増大し、とくに工業化と軍事化が進展する1930年代以降には急増しました。ただし、「持ち出し」論では、朝鮮から日本国内への、預金部資金貯金(郵便貯金)や有価証券買入れ等の形態による資金移動の存在が見過ごされています。その年ごとの流出額もまた、時期を追うごとに増大しています。とくにアジア・太平洋戦争期には、戦時下での強制貯蓄を原資として日本国内債券を引き受ける金額が急増したために、流出額は流入額を上回る水準に達しています。その他にも、配当金や保険支払などのかたちをとった日本国内への資金流出額も増大しました(金洛年『日本帝国主義下の朝鮮経済』東京大学出版会、2002年、第5章を参照)。
1910年「韓国併合条約」は、「完全且永久」な併合を謳っています。当時の日本政府にとっても民間投資家にとっても朝鮮植民地支配は「永久」に続くべきことがらでした。一旦は「持ち出し」として朝鮮に投資された資金は、朝鮮における産業開発を通じて投資者に、利潤や地代、あるいは利子・配当といった所得をもたらしました。そして、それら所得の一部は、帝国本国に還流していました。さらに、戦時体制下には、強制貯蓄政策の展開にともなって、年次単位でみれば、その「持ち出し」状態さえ解消されていました。
インフラ整備・産業開発の特質
冒頭の久保田発言にあるように、朝鮮総督府は、鉄道・港湾や農地造成などのインフラ整備を実施しました。それ自体は事実であるものの、その目的や手法における植民地に固有な特徴にも注目する必要があると思います。
鉄道事業の場合、「併合」に先立つ日露戦争時に、軍事物資や兵員を輸送する兵站線を確保するために、日本軍部によって急きょ整備が進められました。釜山港の港湾整備も一連の工事として併せて実施されています。日露戦時下での鉄道事業においては、日本軍部は、朝鮮人の土地・家屋が強制収用し、労働力も強制的に徴用しました。日本は、朝鮮民衆に対して、「近代」の象徴ともいうべき鉄道との「不幸な遭遇」を強いたのです(高成鳳『植民地鉄道と民衆生活』法政大学出版局、1999年、12頁)。その後も、朝鮮鉄道には中国大陸侵略のための兵站線としての役割が与えられました。そのために、朝鮮半島を南北に縦貫する幹線鉄道体系が強化されたのに対して、朝鮮内でのローカルな輸送能力は低水準にとどめられた。朝鮮民衆にとって朝鮮鉄道は、日常的な交通手段として有用な装置とはなりえなかったのです。
植民地朝鮮で農地造成(土地改良)事業が本格化したのは、1920年に「産米増殖計画」が開始されて以降のことです。この計画は、1918年米騒動で顕在化した日本国内のコメ供給力不足を補うために開始された事業でした。ところが30年代には、農業不況にともなって農産物過剰問題が深刻化しました。朝鮮から日本国内へのコメ移出量を抑えるために、この計画は中止されています。農地造成事業の目的は、朝鮮における食糧の安定供給ではなく、なにより、日本国内でのコメ需給バランスの確保にあったのです。「産米増殖計画」では、大規模な水利事業が実施されました。貯水池などの築造によって、地元の農民は伝統的な水利用慣行の変更を余儀なくされました。地元農民はしばしば水利事業に対する反対運動をおこしました。しかし、日本人大地主や朝鮮総督府の主導によって事業は強力に推進されました(松本武祝『植民地期朝鮮の水利組合事業』未来社、1991年)。
1920年代後半以降、朝鮮北部の国境地帯では巨大ダムによる電源開発が進められ、それを基盤に重化学工業地帯が形成されました。そこで生産された化学肥料(硫安)は、朝鮮だけではなく帝国内の農村地域に広く供給されました。また、その副産物が火薬に転用可能であることから、この地域の工業開発は、日本にとっては軍事戦略上も重要な位置づけがなされていました。巨大ダム建設過程においては、数多くの住民が転居を余儀なくされました。朝鮮総督府は、警察を動員して住民の反発を未然に取り締りつつ、同じく警察を介して土地・家屋の買収を行ったりもしました(広瀬貞三「水豊発電所建設による水没地問題-朝鮮側を中心に-」『朝鮮学報』第139号、1991年)。
以上のように、植民地下でのインフラ整備や産業開発は、日本が朝鮮に押し付けた軍事的・経済的な役割に応えるかたちで推進されたものでした。しかも、朝鮮総督府は、「民主的」な手続きを踏むことなく、強権的に大規模な各種事業を実施していったのです。植民地下の朝鮮では、朝鮮人の政治的権利が否定されていました。そのことが、強権的な事業実施を可能にしていたといえます。インフラ整備や産業開発が外見上「順調」に実施されていった裏面には、意思に反して労働力を徴用され、また生産と生活の基盤を物理的に奪われた数多くの朝鮮人の存在があったのです。多くの朝鮮民衆は、朝鮮総督府による強権的な開発に対して抵抗を試みました。しかし、朝鮮総督府は、それらの抵抗活動を抑圧しました。
産業開発の結末
「併合」時点での朝鮮は、農業中心の社会でした。その後、工業生産額が急増し、1940年には農業生産額とほぼ同額となっています。財政・民間部門による投資は農業生産の伸長をもたらしましたが、さらにそれらは、農業生産を大幅に上回る速度で工業生産の伸長を実現していったのでした。
ただし、こうした生産力の上昇や産業構造の「高度化」にもかかわらず、朝鮮の就業構造にはそれほど大きな変化は起こりませんでした。朝鮮人有業者数に占める農業従業者比率は、1930年の81%が、40年に74%へと減少したにとどまります。朝鮮に立地した重化学工業などの大工場の場合、その多くは、当時の先端技術にもとづくものでした。そのために、機械や装置への設備投資が巨額に及んだのとは対照的に、労働力をそれほど必要としませんでした。その結果、急速な工業部門の伸展にもかかわらず、就業労働力の需要は限定的でした。かつ技術管理・生産管理は朝鮮在住日本人のホワイトカラーや技術者によって担われていたために、朝鮮人の就業機会はさらに制限されていました。結果として、大多数の朝鮮人は農業部門にとどまらざるをえなかったのです。
ところで、「産米増殖計画」の過程でコメが大量に日本に移出されるようになり、その価格は帝国内での需給状況に強く規定されるようになりました。コメに次いで重要な商品作物であった棉花や繭に関しては、紡績資本・製糸資本(日本からの進出資本および一部朝鮮人民族資本)が地域ごとに独占的に原料(棉花・繭)を買い取る制度がつくられました。そのためにそれら商品作物の価格は、農民に不利に決定されていました。その一方で農民は、化学肥料など農業生産に必要な資材の購入あるいは水利事業費(事業借入金の償還)など、現金支出負担の増大を強いられました。くわえて、かつて朝鮮農村には、綿織物などの在来産業部門が発達していましたが、日本国内からの工業製品の流入、朝鮮での機械制繊維工業の立地などによって、農民の自給的生産領域を残してそれら在来産業は衰退してしまいました。交通網の整備が、こうした傾向を促進しました。こうして、朝鮮農民にとっては、インフラ整備・産業開発が農業所得水準の停滞をもたらしたばかりでなく、兼業・副業収入源までをも奪う契機となりました。
図-1に朝鮮における農家戸数の推移を示しました。自作農の場合、1920年代前半までは微増、それ以降微減に転じています。自小作農は一貫して減少、小作農は逆に一貫して増加の動きを示しています。上記のような農家所得(農業所得+農外所得)の変化にともなって負債を累積させる農家が増大しました。しかも、当時朝鮮農村には近代的な金融機関が発達しておらず、これらの負債の大部分が高利貸によるものでした。結果的にそれらの農家は、所有農地を喪失せざるを得なかったのです。こうして、数多くの自作農・自小作農家(とくに後者)が土地を失うこととなりました。その裏面では、日本人・朝鮮人地主が農地を集積していました。非農業部門において労働力を吸収する力が弱かったために、これら困窮した農民は、土地を失った後も小作農として農村に滞留しました。小作地借り入れを望む農家が増えたために、地主へ支払う小作料の水準は高止まりしたままでした。高率小作料もまた、農民の困窮化を促す要因となりました。
資料:朝鮮総督府『朝鮮総督府統計年表』各年版より作成。
注1)1920~32年の自作農には耕作地主(地主(乙))を含む。
注2)1919年以前の数値は不正確なため省略した。
貧窮した農民は、相対的に高価なコメの商品化量を増やし、代わりに「満洲」から輸入された粟などの安価な雑穀類を購入して消費することで、糊口をしのぎました。それでも1930年代の農業不況期には、農村に留まることができずに、数多くの零細農民が就業機会を求めて日本や「満洲」に渡り、都市部最下層の労働力市場への参入を試みました。一部の農民は、森林地帯に分け入って焼畑農業を行いました(火田民)。あるいは、京城(現ソウル)市内に流入して都市の雑業者となった人々もいました。京城市街の周辺部には粗末な家屋を立てて居住し日雇いなど単純労働に従事する都市貧民(土幕民)の集落が形成されました(写真-1を参照。この家屋に親子4人が居住していました)。
写真-1 土幕民の家屋(1940年ごろ、京城府)
出典:京城帝国大学衛生調査部編『土幕民の生活・衛生』岩波書店、1942年
まとめ
植民地期を通じて、朝鮮においては、鉄道網などの交通機関が整備され、大規模な水利事業や水力電源開発が実施されました。そして、化学肥料工業などの重化学工業部門を中心に工業化が急速に進展しました。しかし、それは、日本の軍事的要請にもとづくものであり、あるいは朝鮮に賦存する資源を開発して日本に安価で安定的に供給することをめざすものでした。これらインフラ整備や産業開発に際しては、強権的な手法が採用され、朝鮮人利害関係者たちの意向はしばしば無視されました。そして、事業の過程では、生産と生活の基盤を失って移住を強いられる朝鮮人が数多く発生しました。
こうしたインフラ整備・産業開発は、朝鮮経済に大きな変化をもたらしました。農村においては、農業所得水準が停滞し、兼業・副業就業機会が減少しました。その結果、朝鮮農民の所得水準は停滞し、農地所有権を失う農家が続出しました。その裏面で、日本人・朝鮮人地主への農地所有集中が進みました。植民地下での朝鮮は、工業化の急速な伸展にもかかわらず、非農業部門における労働力市場の展開は限定的でした。農地を喪失した農民は、小作農として農村に滞留せざるを得ませんでした。それが農地の小作料水準を高止まりさせて、農民の所得水準を停滞させるもう一つの要因となりました。農村に滞留することさえ困難となった朝鮮農民は、「満洲」や日本に移住して、土木作業など都市最下層の労働力市場への参入を図りました。また、京城など都市の雑業者となる者も多数現れました。
このように、日本からの資金流入とそれを原資とするインフラ整備・産業開発は、朝鮮人民衆の生活水準向上に結び付くことはありませんでした。そして、朝鮮人民衆の生活水準=労働力再生産費用の低位性は、ぎゃくに朝鮮に投資をおこなった資本家・地主に巨額の地代と利潤をもたらすこととなりました。これらの地代・利潤は、一部は朝鮮内に再投資され、残りの一部は日本に還流しました。「植民地支配=恩恵」論およびその前提となっている資金の「持ち出し」論は、以上の論点を無視することによってはじめて成り立ちうる暴論に過ぎないといえるでしょう。
<参考文献>
許粋烈(保坂祐二訳)『植民地朝鮮の開発と民衆 : 植民地近代化論、収奪論の超克』明石書店、2008年
金洛年『日本帝国主義下の朝鮮経済』東京大学出版会、2002年
高成鳳『植民地鉄道と民衆生活』法政大学出版局、1999年
松本武祝『植民地期朝鮮の水利組合事業』未来社、1991年
姜在彦『朝鮮における日窒コンツェルン』不二出版、1985年
林炳潤『植民地における商業的農業の展開』東京大学出版会、1971年